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第63回:一つのアイデアをきっかけに大きく成長した企業

誰もが知る優良企業にも、現在の目から見るとハイテクとは思えない一つのアイデアをきっかけに大きく成長した企業がいくつもあります。その成長の軌跡には強く興味が惹かれることもあるのではないでしょうか。今回はこのような企業について尋ねてみました。

パナソニック(二股ソケット)

パナソニックの創業者松下幸之助が「松下電気器具製作所」を設立したのは1918年のことでした。妻と妻の弟の井植歳男(三洋電機株式会社の創業者)の3名でのスタートです。主に電灯用に一家庭一灯で契約していた当時、アイロンなど他の電化製品を電灯のソケットから使えるようなアタッチメント・プラグや、ソケットからの電機を二つに分けて一つは電灯に、もう一つは電化製品に使える端子とした二灯用クラスター(二股ソケット)などを製作しました。その品質の良さと価格の安さで評判となり従業員も20名を数えるまでになりました。ちなみにこれらの商品は現在も縁日の屋台や漁船向けに販売されており「100年間売れ続ける電気製品」などとして、ギネス世界記録の認定を目指しているそうです。今回、「着眼点が重要であることを再認識した」と答えた人が35%と最も多くなっていますが、まさか開発当初は100年売り続けられるものだとは思っていなかったのではないでしょうか。

また幸之助は当時手の届きにくかったアイロンを品質を落とすことなく3割安い価格で売るように指示します。現場はこれを量産することで乗り切りました。サーモスタットを使用した新開発の電気コタツも同様に従来製品の半値で発売し好評を得ました。早くから「一般家庭が入手しやすい価格で品質の良い製品を普及させることに力を注いできた」一方で価格については「不当に高い利益も、少なすぎる利益も、ともに商売の正道からはずれている」との観点から取引先の適正価格も追求してきたそうです。

創業後やがて従業員は300人に増えます。時節は関東大震災や金融恐慌が発生し、世の中が混乱していました。そうした中で販売店や従業員との精神的なつながりを重視し、販売店向け、社員向けそれぞれの機関紙を創刊します。

「企業は社会からの預かりものである。従ってその事業を正しく経営して、社会の発展と人々の生活の向上に貢献するのが当然の務めである。事業の利益は、社会に貢献した報酬として与えられるものである」との思いに至り、現在も受け継がれている「経営基本方針」の基になっている「綱領・信条」もすでにこの頃作られていました。

創業の当時から消費者、販売店、従業員すべてがWin-Winの関係にあることに重きを置いていたことが感じられます。今回の調査でも「創業者の夢を感じた」と27%の人が答えています。

シャープ(徳尾錠、シャープペンシル、国産第1号鉱石ラジオ)

一方、同じく総合家電メーカーのシャープでは創業者の早川徳次が錺屋(かざりや:金属細工業)での奉公を終え、一人前の職人となっていました。ある日活動写真を見ていた徳次はベルトに穴がなくてもきっちり締められるバックル「徳尾錠(とくびじょう)」を考案します。その後独立し、水道取り付けを簡単にする製品など新製品の研究に熱心に取り組んだそうです。

それから数年経った1915年、シャープペンシルの前身ともいえるセルロイド製の繰出鉛筆の金具を受注します。請け負ったのは内部の金具の製作ですが、繰出鉛筆そのものに可能性を感じ改良に没頭します。やがて完成した「早川式繰出鉛筆」を世に出そうと文具問屋を回りますが、なかなかうまくはいきませんでした。しかしやがて第一次世界大戦の影響でドイツ製の金属繰出鉛筆が入手困難になり、欧米への輸出用に受注が殺到するようになります。その後も改良を重ね、「シャープペンシル」を誕生させます。

業績は好調でしたが関東大震災によって工場は類焼し、家族を失い、事業再開にも目処が立たず事業を譲渡することになってしまいました。このときシャープペンシルに関する特許を譲渡先である文具メーカーに無償で使用させる契約を交わします。一方で技術者を引き続き雇い、徳次自身が半年技術指導を行う約束も取り付け、自らも半年に渡りかつての従業員にシャープペンシルの技術を伝授しました。その後、事業を興すことを決意します。工場を大きくし、この地を発展させたいとの夢をもち、大阪近郊に「早川金属工業研究所」を興しました。

「常に他より先に新境地を拓かねば、事業の成功はない」と考えていた徳次は国産第1号鉱石ラジオ受信機を誕生させます。ラジオに銘打った「シャープ」の文字はシャープペンシルとラジオの感度を象徴したもので、製品のいち早い市場投入と適正価格、さらには製品保証で販売は好調でした。これにより家電メーカーとしてシャープの名前が浸透し始めたのでした。

常に時代の先を読み新しいものを一般に使えるよう研究を重ねた姿勢を感じるのでしょうか、33%が「着眼点が重要であることを再認識した」と回答しました。また「家電メーカーからはシャープペンシル」を想像するのも難しいかもしれません、「現在の姿から意外性を感じた」が28%となりました。

ブリジストン(ゴム底の地下足袋)

続いて世界最大手のタイヤメーカー、ブリジストンです。創業者石橋正二郎は、兄とともに仕立物業を父から引き継ぎました。一生をかけて実業をやる以上は全国的に発展するような事業で世の中のためになることをしたい、と大きな夢を描き8、9人の従業員の仕立屋からブリジストンを築きました。

正二郎はシャツやズボン下、脚絆(きゃはん)に足袋といった種々の注文に応じる非能率的な物業から「足袋専業」にすることを決断。その後も徒弟制を改め職人として給料を払い、勤務時間の短縮や休日を定めるなど思い切った改革を実行。それまで大きさによって小刻みに値段がつけられていた足袋の価格を均一化するなど、流通の単純化、合理化で業績を伸ばしました。

初めて試乗した自動車を宣伝用に購入することにしたり、ワラジの代わりにゴム底を地下足袋に貼り付ける製法を開発したりと先見性と革新的なアイデアをもつ人であったようです。

ゴム底の地下足袋からゴム底の靴、さらにはアメリカでの自動車ブームがやがて日本にも到来すると見越し、タイヤ事業に進出しました。地道に改良を重ね、品質責任保証制を採用するなどして信頼を得、タイヤメーカー世界シェアトップの礎を築きました。

ミツカン酢(酒粕から酢を作ることに着眼し、造り酒屋から酢メーカーに)

さて、江戸時代の後期、酢といったら米酢が一般的でした。酒桶に酢酸菌が入るとお酒が全部「酢」になってしまうため酒造家が酢を作るなど当時は考えられないことだったそうです。

そんな時代に今の愛知県半田で造り酒屋だったミツカンの初代中野又左衛門は手軽で味も良い酒粕を利用した粕酢造りに成功します。お酒と言えば日本酒だった当事は大量に出る酒粕の処分に困っていました。漬物や飼料などでも消費し切れなかった酒粕を見事にリサイクルした粕酢は画期的な発明でした。江戸で握りずしの原型となった酢を一部加えて発酵を早めた押しずしの一種「半熟れずし」には、米酢に比べても手軽で、当事貴重だった砂糖を使わずとも甘みや旨みの出る粕酢が合うと江戸での大量消費を見込んで本格的に参入しました。

続いて二代目又左衛門は「酢屋勘次郎」を名乗り、「酢といえば尾張の勘次郎」と言われるほどの存在になりました。商標登録制度の無い時代に、ブランドを示すために「勘」の文字を丸で囲った独自のロゴマークを考案し、商品に印しました。さらに、他の丸勘と差別化を図るために商品にオリジナルのブランド名をつけました。これが1845年頃のことだというのですからまさに時代を越えたブランド企業といえそうです。ちなみにこのときつけたブランド名は「山吹」。現在も高級酢ブランドとして「山吹」の名は続いています。

さて、四代目又左衛門の明治17年には商標条例が施行され商標登録が必要となります。当時丸勘という屋号の酢屋がいくつかあり、丸勘は他に先を越されてしまったため「三」の文字の下に「○」をつけ(三ツ環)の商標とします。この登録に際し、芝居小屋を一日借り切り、1500人を招待して歌舞伎興行したそうです。商標の由来を書いたパンフレットや、商標をあしらったかんざしなど記念品を配り、客席にお弁当やお酒を運ぶ店員たちは、ミツカンの商標を染め抜いたハッピなどを着ていたというのですから広告効果は大きなものとなったと思われます。

粕酢という新商品をきっかけに酢のブランド化に取り組み、それが今日まで受け継がれて現在の酢のトップ企業にまで至ったことは実に興味深いことです。

ケンタッキーフライドチキン(世界初のフランチャイズビジネス)

最後にケンタッキーフライドチキンについてです。アメリカインディアナ州に生まれたハーランド・デーヴィッド・サンダースは幼いときに父親を亡くし、以来働く母親を助けてきました。初めて仕事をしたのは10歳の頃、仕事先で失敗してしまった彼に母親が言った言葉が「仕事を手に入れて、その仕事をずっと続けるための唯一の方法。それはね、自分のベストを尽くすこと」でした。彼はそれからの人生で一日たりとも怠けたことはないといいます。

鉄道員、弁護士助手、生命保険営業マン、蒸気船運行会社、農業用照明設備、タイヤ営業マン、ガソリンスタンドなど様々な仕事をしました。ガソリンスタンドの経営していたとき、ガソリンスタンド横にお客さんに食事を提供するカフェを開きます。この店の味とサービスが評判を呼びケンタッキー州から「カーネル」という名誉称号をもらいます。

やがてこの評判のフライドチキンのレシピを提供し、1羽売るごとに5セントが入る仕組みを思いつきます。このときサンダースは65歳。その後、多くの店に断られるなど苦労しながらも世界初のフランチャイズ化を軌道に乗せます。チキンの揚げ方は特許を申請し、加盟料を取らない、備品はリース、フランチャイズ店が利益をあげて初めてサンダースにも利益が出るという方式を採用。フランチャイズ契約店には自ら積極的に出向いて調理法を指導したそうです。

フライドチキンの味は世界120の国や地域に、18,000店(2012年12月末現在)になるまで広がっていきました。

小さな発明から大きく成長した企業、その成り立ちを知ることで、より企業のブランドに愛着がわくかもしれませんね。

調査概要

全国20歳以上男女のインターネットユーザーから回答を得た

サンプル数 100
調査期間 2014年2月14日~2月17日
調査方法・内容 現在の目から見ると発明としてはハイテクなものに見えないが、一つのアイデアをきっかけに優良企業に成長した企業について(パナソニック(二股ソケット)、シャープ(徳尾錠、シャープペンシル、国産第1号鉱石ラジオ)、ブリジストン(ゴム底の地下足袋)、ミツカン(酒粕から酢を作ることに成功)、ケンタッキーフライドチキン(ガソリンスタンド横6席のカフェから世界的なFCビジネスに発展)の5つの発明品と企業に対し、10のイメージ項目(この企業に興味を持った/ベンチャー企業らしさを感じた/現在の姿から意外性を感じた/この発明をはるかに超える発展をしたと感じた/その後の成長過程に興味を持った/企業に親しみを感じた/創業者の夢を感じた/着眼点が重要であることを再認識した/強く印象に残る話だ/自分にも何かできるかもしれない、と勇気が出た)の中から複数回答式で回答を得た。